電子書籍について書いておくか

 

 

artonさんの記事に誘発されて書く。

電子書籍と紙の本との大きな違いは、書籍の文字がテキストデータであるという点だ、それをくだらないDRMやあり得ないデータフォーマットでなかったことにしているのはそもそもそんなものは電子書籍ではない。(ちなみにDRMに何が何でも反対じゃない。また、OCRを通さない自炊はただの紙減らしに過ぎない。)

テクストがデータになっているメリット、それによって広がる知見というものは、KindleやiPad登場以前の遙か以前のこの月刊アスキーの連載でで僕らは見ている。

Amazon.co.jp: 哲学者クロサキのMS‐DOSは思考の道具だ: 黒崎 政男: 本.

この連載では哲学者のクロサキ氏が、DOSでgrep, sed, perl(!)を使用して自信テクストを縦横無尽に抽出、解析し、それがさらなる思考につながっていく姿が書かれている。20年近くも前に。

自由に、テクストをテキストデータとして検索し、抽出し、引用できる電子書籍は学術的、文化的向上をもたらすし、僕らの文化的な生活を大きく前進させるものだ。

それがどうして「本は最初から読んで欲しい」などという訳のわからない言動で現状の電子書籍が「文化人」たる作家から肯定され、よくわからない強すぎるDRMや自由に検索さえかけられず、特定にリーダー(ハードウェア)に固定される「自称電子書籍」になってしまうんだろう。

オライリーの電子書籍やオンラインサービスのSafariを使うたびに、現状のこの国の現実は嘆かずにはいられない。

僕に検索し、引用する自由を。

#僕はハードウェアとしてのkindleは好きだけど、kndleフォーマットはクソだと思ってる。iBookもそうだしとかやっているときりがないな。

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